このブログは、管理人さくら♪一信徒(日蓮正宗)によるものであり 内容の一切については宗教法人・日蓮正宗とは無関係です.

2012年12月08日

御逮夜御講へ行ってきました。

12月8日(土)
御逮夜御講へ行ってきました。

読経、唱題、御観念、と仏祖三宝尊へ
御報恩感謝申し上げ終了。

その後、御住職より来年の行事予定を
伝えて頂きました。

来年1/1は本山、全国末寺共に
午前9時より広布唱題会になり
その後、元旦勤行になるそうです。

また、来年11月の御影堂の
落慶大法要へ参加予定を決めて下さいとの事。

私は平日の日を希望しようと思いますが
人数も限られているそうなので
まだわかりませが絶対に行きたいなぁ!(^^)!

御住職の言葉からも来年も
御命題達成に向けて唱題に唱題を重ねた
折伏に前進して行く決意が伺われました。

また御住職の法話も沢山お話し
下さりましたが、その中で印象的だったのは
東京の支部の方のお話です。

11月25日に添書登山された方が
登山までタクシーを使い、
そのタクシーの運転手を折伏したそうです。

登山の帰りにも同じタクシーに乗り
東京の寺院にお誘いして
素直な入信が叶ったそうです。

しかし・・
タクシーに乗りながら折伏をするなんて
凄い勇気のある方だなぁ〜とビックリしました。

この方は常日頃から折伏精神で
いたに違いありません。
御本尊様への絶対の確信で
絶対に幸せにしたい思いが
伝わったのでしょう。

私も折伏を常に意識していますが
まだ、知り合いに声をかけるのが
やっとです^^;

普段着の折伏と言う言葉を思い出しましたが
人を選ばず折伏できるぐらいになれるように
精進していきます。

タグ:御講 折伏
posted by さくら♪ at 23:58| Comment(11) | TrackBack(0) | 2012年お経日+御講日 | 更新情報をチェックする

2012年12月02日

広布唱題会並びに創立記念御講。

毎月第1日曜日は総本山を中心に全国の日蓮正宗寺院において
広布唱題会が執り行われます。

私も末寺で今年最後の広唱題会に参加する事が出来て良かったです(^^)v

また、本日12月2日は創立記念御講でした。
(正式には昭和54年12月3日)

お寺の御本尊様は第66世法主日達上人御書写の御本尊様で昭和54年7月1日
しかし、日達上人は7月22に御遷化されましたので
お寺の開基は第67世法主日顕上人になります。

また、この時のエピソードとして、楽大寺の読みを、
その頃の学会の幹部が「らくだいじ」と誤読したのを
日顕上人様が正式名は「ぎょうだいじ」と言われるようにと改めさせたと言います。

楽→願うと意味があるそうです。
楽大→大きく願う、大願(だいがん)=広宣流布への願いを込めて
命名されたそうです。

有難くも今日は広布唱題会であり、唱題を講の皆さんと共に
広宣流布へ大願を込めて御祈念させて頂きながらの
創立記念の大祝賀となりました\(^o^)/

posted by さくら♪ at 14:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 2012年お経日+御講日 | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

目師会

11月15日は第三祖日目上人御入滅の日でした。

昨年は仕事で参加できませんでしたので初参加になりますが
特に希望休みを出したわけでもなく参加できたので嬉しいです^^

私の支部では午後7時より「目師会」が行われ、
御住職より献膳の義・読経・唱題・御観念と厳かに進みました。

その後、御住職より日目上人の詳しいお話を頂きました。
日目上人については下記に詳しい事を記しておきますが

御住職の話の中で一番印象に残っていたのは
日目上人の時代では時の執権は国にあったので国家諫暁をすれば
全ての国民はそれに従う時代でしたが
今は国民一人一人に大聖人様の仏法へ帰依させる事が
国家諌暁と同じ意になると言う所でした。

日蓮正宗は宗祖以来、日興上人・日目上人へ金口嫡々唯授一人の血脈相承され
正しく仏法を承継・承伝され
日目上人は生涯をかけて42度の国家諌暁をされ
その一生を正法弘通に尽くされ不自借身命の御振舞いを鑑(かがみ)とし
私達も功徳の賜る信心でもって広宣流布目指していきましょうと御教授賜りました。

しかし、民主主義の現代においては特に国立戒壇に拘る顕正会の人達に分って貰いたい部分です。
正に事相の相のによる部分は、その時で(広宣流布)明確には顕せないことであり
未来に来るべき時代に合わせ、その時の御法主がその時代に合わせた形で戒壇建立がなされるのですから。
2012_11_15.jpg
「目師会」で頂いた御供物です♪
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第三祖日目上人(日蓮正宗の歴史より転記)
日目上人は、伊豆国仁田郡畠郷のお生まれで、新田五郎重綱を父に、南条時光の姉を母に、文応元年(一二六〇年)十二月の御誕生、御幼名を虎王丸と称されていました。

文永十一年(一二七四年)御年十五歳のときに、伊豆方面弘教にみえた日興上人とお会いになられ、日興上人の法論を側で聞かれて弟子入りを決意されたのです。

そして、三年目の建治二年(一二七六年)、御年十七歳のときに、身延に日興上人を訪ねて入門され、のちに新田の姓をとって新田卿阿 梨と呼ばれるようになりました。

身延にあっては、大師匠の日蓮大聖人、師匠の日興上人に御給仕申し上げましたが、その勤勉さは類いまれで、毎日、身延の谷川から水を汲んで大聖人のもとに運ばれる際にも、目より下に桶を持っては申し訳ないと、御自らの頭にのせて運ばれたので、ついには頭の頂が窪んでしまったと伝えられるほどです。

また、常随給仕のかたわら、大聖人の御説法を直接聴聞され、日興上人からも日夜に御指導をいただいた日目上人は、持ち前の資質もあられたのでしょう、「問答第一」とまでうたわれるようになられ、しばしば大聖人の御代管として国家諫暁におもむかれています。そして、この日目上人の天奏(天皇に対する諫暁)によって、弘安五年(一二八二年)二月には、天皇より
「朕、後日、若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべし」との下し文が下賜されたのであります。

当然のことながら、大聖人からの信頼もことのほか厚く、大聖人が池上で御休養の折には、比叡山の二階堂伊勢法印が問答を挑んできましたので、大聖人は御代管として日目上人に対論を命ぜられ、若干二十二歳の青年僧であられた日目上人は、みごとに相手の邪義を破って屈伏せしめたのであります。

こうした日目上人の行体堅固を重んぜられた日興上人は、大石寺落成にあたり、御座替わり御本尊を日目上人に授与され、内付 をなさいました。このとき、日目上人は日興上人の後継者となられ、日興上人重須移住の後には、日目上人が実質的な大石寺の貫主となられたのです。

そして元徳四年(一三三二年)十一月十日、日興上人より『日興跡条々事』と称される譲り状が日目上人へ授与されました。そのなかには、

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を授与す」(新編一八八三ページ)
「大石寺は、御堂と云ひ墓所と云ひ、日目之を管領し、修理を加へ、勤行を致して、広宣流布を待つべきなり」(同ページ)等と示され、日目上人が第三祖として一切の付 を受けられたことは疑う余地すらありません(『日興跡条々事』御正筆は大石寺に現存)。

日興上人の御遷化よりわずか後の正慶二年十一月、鎌倉幕府が倒れて政権が京都の朝廷に戻るという機会を得て、日目上人は御弟子の日尊・日郷をともなわれ、天奏のため京都に向かわれることになりました。

このとき、すでに日目上人は御年七十四歳の御高齢であらせられましたので、万一の場合を考えられ、出発の前に内々に日道上人に血脈相承をなさったのです。

かくて日目上人は天奏のため京都へ立たれたのですが、途中、伊吹おろしの吹きすさぶ美濃の垂井の宿において御休養、ついに再び発たれることなく、広布に賭けた激闘の御生涯を閉じられたのであります。時に正慶二年十一月十五日でした。

日目上人の天奏は不運にも成就されませんでしたが、その御一生を通じてなさった国諫はじつに四十二回に及ぶといわれ、広宣流布に挺身あそばされた烈火のごとき御振舞いは、今なお日蓮正宗伝統の折伏精神として、燦然と光を放っているのであります。
posted by さくら♪ at 00:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 2012年お経日+御講日 | 更新情報をチェックする
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